通元院について
通元院は、宝永二年(1705年)に徳川家菩提寺である増上寺の御別当として建立された由緒ある浄土宗の寺院です。
江戸時代から三百年継ぐ歴史・文化を大切に、現代に生きる人々にも広く開かれた寺院でありたいと願っています。
ご挨拶
通元院は徳川綱重公(清揚院殿圓誉天安永和大居士)の法要儀式と霊廟の管理を主な役割として宝永二年(一七〇五年)に設立された寺院です。また、境内に瘡守稲荷が祀られ、江戸期には加賀藩前田家の宿坊としての役割も担うなど、活気あふれる当時の様子が文献や資料から伝わります。明治期まで一七五〇坪を有した境内は今はなく、移転した場所に戦後建築された建物も老朽化により解体をいたしました。新たな建物の建築を予定しておりましたが、種々の制約により現在着手できない状態となっておりますが、通元院の御本尊は同じく私が住職を務めている龍原寺本堂に安置をし、大本山増上寺様の各種法要には山内寺院として出仕し活動を続けております。新建造物完成までの期間中は、瘡守稲荷内にも阿弥陀仏を配し仮本堂としてお参りいただけるようになっております。どうぞお手合わせいただければ幸いです。
通元院 住職 宮坂 直樹
ご由緒
徳川家と浄土宗の関わり
徳川家の源流である松平氏は文明七年(1475年)に愛知県岡崎市に浄土宗の寺院・大樹寺を創建して菩提寺とし阿弥陀仏への信仰を大切にしていました。徳川家康は江戸入城と同時に当時の増上寺住職・源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依し、天正十八年(1590年)に増上寺を徳川家の菩提寺としました。以後、増上寺の境内は整備され、また織田信長公による比叡山焼き討ち以降、一カ所で見ることが出来なかった大蔵経(三大蔵)を徳川家康公が寄進したことにより日本中から僧侶が勉学のために集まり、学問と教えの中心地となりました。こうした徳川家との関わりもあり、浄土宗は江戸時代を通じて大いに発展することになりました。
徳川綱重逝去後、御霊屋別当寺院として創建
徳川家康のひ孫「徳川綱重」は江戸時代初期の大名で、徳川幕府第二代将軍・秀忠の孫、第三代将軍・家光の子、第四代将軍・家綱の弟、第五代将軍・綱吉の兄、第六代将軍・家宣の父、第七代将軍・家継の祖父にあたります。甲府藩主として甲斐国を治め、別邸として建設した「甲府浜屋敷(甲府範下屋敷)」は、現在浜離宮恩賜庭園となっています。延宝六年(1878年)逝去後、宝永七年(1710年)に「贈正一位太政大臣征夷大将軍」に任じられ、亡くなった後に「征夷大将軍」が送られています。
通元院は綱重公の逝去後、彼の息子である徳川綱豊(後の6代将軍家宣)によって、綱重を供養するため御霊屋別当寺院として創建され、その住職は清揚院廟の管理および法要儀式を任されておりました。当時の寺格制度において江戸城に登城した際、通元院は独礼(将軍に単独で拝礼すること)が認められる特別な待遇を与えられていました。江戸時代、東京タワー下に1,750坪を有していた境内地は山の地形を取り込んだ広大な敷地で、庭園も豊かでありましたが、明治二十年(1887年)に東京府集会所用地とされ、別院の酉蓮社の敷地内・将監橋際へ移転しました。通元院の鎮守である瘡守稲荷も同地へと移転し、現在にいたっています。
(一部『港区史 第2巻 通史編 近世 上』を参考)
疱瘡・皮膚病平癒や大願成就のお稲荷様として
信仰される瘡守稲荷
旧通元院敷地内に鎮座していたお稲荷さんで、古くから難病と恐れられてきた疱瘡(天然痘)や皮膚病(できもの・腫れ物)避けや治癒の他、開運や大願成就のお稲荷様として、今でも遠方からも参拝者が訪れる場所となっています。江戸時代には分社もされ、現在でも各地にてお祀りされています。
寺宝・文化財 瘡守稲荷について